2025年3月23日 み言葉と黙想

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」 マタイによる福音書 16章24,25節

 この聖句は有名な聖句です。しかし、多くの人のつまずきにもなりえる聖句だと思います。その理由は、イエスさまのために「命を失う」という言葉でしょう。では、イエスさまが言われている「命を失う」とはどういうことでしょうか。
 イエスさまは、すべての人の罪を赦すために、御自身を十字架に架けられて、その命を私たちのために捧げてくださいました。その文脈どおりに受け止めると、私たちも同じように自分の命を他人のために犠牲にしなければならないと読むことができます。しかし、イエスさまが言われていることの本当の意味は、この私の命そのものと引き換えに他人の命を救いなさい、ということではありません。だれもが、そういう場面に出会うことはほとんどないからです。「命を失う」と言われているのは、イエスさまがされたように、神さまの愛を豊かに受けて、その愛に基づいて、他人のために神さまの愛を、自分に与えられている時間を使って用いるということです。
 礼拝に出席する時間、祈り会に出席する時間。それだけでなく、イエスさまのことを伝えるために、身近な人にイエスさまのこと、教会のこと、キリスト教のことを話す時間はすべて、この私の時間(命)を神さまのために用いていることになります。
 受難節の時を歩んでいますが、イエスさまが十字架に架けられたことを特に憶えるこの時、この私にできることはなにか?ということを特に覚えて一日一日を大切に過ごしたいと思います。

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